【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!

【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!
提供:山梨県立博物館 / 画像:山梨県立博物館

 

山梨県立博物館がツイッターで公開した、「ヨゲンノトリ」が話題を呼んでいます。

ヨゲンノトリ?

そうなんです。「私の姿を朝夕に拝めば難を逃れることができるぞ」と、江戸時代末期にコレラ流行を予言したらしく、ネット上ではアマビエに続き大きな反響になっています。

コレラを予言したヨゲンノトリとは?

【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!
提供:山梨県立博物館 / 画像:山梨県立博物館

山梨県立博物館の公式サイトによれば、ヨゲンノトリは同館が所蔵する「暴瀉(しゃ)病流行日記」(1858年)に登場しています。

「暴瀉病流行日記」は、当時流行していたコレラの様子を市川村(現山梨市)の村役人・喜左衛門が記したもので、その8月初頭の記事に、頭が2つある不思議な鳥の絵が描かれています。そこにつけられている説明には、次のように書かれてあるそうです。

『如図なる鳥、去年十二月、加賀国白山ニあらわれ出て、申て云、今午年八・九月の比、世の人九分通死ル難有、依テ我等か姿ヲ朝夕共ニ仰、信心者ハかならず其難の(が)るべしと云々』

【現代語訳】図のような鳥が、去年の12月に加賀国(現在の石川県)に現れて言うことには、「来年の8月・9月のころ、世の中の人が9割方死ぬという難が起こる。それについて、我らの姿を朝夕に仰ぎ、信心するものは必ずその難を逃れることができるであろう」。

『是熊野七社大権現御神民の鳥ニ候旨申伝、今年八・九月至テ人多死ル事、神辺不思議之御つけ成』

【現代語訳】これは熊野七社大権現の御神民の鳥であると言われている。今年の8月・9月に至り、多くの人が死んだ。まさしく神の力、不思議なお告げである。

これ以外に、この不思議な鳥についての情報は日記には書かれておらず、これ以上のことはわからないそうです。

注目は、「加賀国白山」ですね。同館によりますと、「恐らくこれは当時の人々が、不思議なことが起きそうな霊地としてその名を借りたもので、実際に白山にこうした霊獣が現れたわけではないのでしょう。「ヨゲンノトリ」という名前も、当館で付けたものです。」としています。

ヨゲンノトリはライチョウ?

【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!

石川県に住む、頭が2つある不思議な鳥って何?という疑問を解明しようと色々調べてみました。

「キングギドラ」は頭が3つ、しかも宇宙怪獣だし・・・
「双頭の鷲」は古来から存在するけど、外国の話だし・・・
「共命鳥」は仏教の鳥で頭が2つあるけど、予言や厄払いの伝承は無いし・・・

そこで、「加賀国白山」の鳥といえば、白山のライチョウでは?
と思い、ライチョウについて調べてみました。

というのも、ライチョウは夏は黒色黄斑の羽毛をしていますが、冬には純白色になることから保養色の典型的な例としても有名な鳥ですから、白と黒の2つの頭ということであれば、それっぽいと思います。

【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!

【ヨゲンノトリ】なんと、石川県の話だった!

羽毛がはえかわる季節に、たまたま重なった2匹のライチョウを見たとか(笑

それはないとしても、江戸中期に記された「白山諸雑記」(1710年(宝永7年))には、「雷鳥ハ実ニ白山ノ霊鳥ニテ神ノ御使ナル事知ルヘシ」とあるように、ライチョウは白山では特別な鳥として扱われていたようです。

また、「日本随筆大成第二期」(1975年(昭和50年))には、「白山にらいの鳥という鳥がいる。見る人は稀であり、見ることができると奇瑞であるとされる。この鳥はよく火災を避けるという。」と記載されています。

石川県白山自然保護センターが発行した「白山の自然誌39/白山のライチョウの歴史」(2019年(平成31 年))には、次のように詳しくライチョウのことが記載されています。

ライチョウは古くは「らいの鳥」あるいは「鶆」、「鵣」、「來」などとも書かれ、和歌にしたためられていました。

白山は京都や奈良など古代の政治や仏教界の中心地域にその存在を早くから知られており、白山自体が詩歌に詠まれ中央仏教僧も白山へ来山していました。この白山とそこに棲むライチョウが結びつけられ和歌に詠まれたと思います。(中略)

和歌のほかにも絵図として白山のライチョウは残されています。正徳年間(1711年~1716年)に描かれたライチョウの絵図の写本があります。明治期に白山比咩神社の宮司が原図から写したものとされており、図説には正徳年間に旧藩主綱紀卿の命によりかかれたと添え書きがあります。白山のライチョウのオス、メス、ヒナそれと立山のライチョウのオスとメスの絵図もありました。原図は現地で確認し描いた絵図と思われ、よく特徴が描かれています。

また、次のような絵図を加賀藩が残したとの記録があります。江戸中期の1720年(享保5年)、加賀藩が山絵図を作成させるために絵師梅田与兵衛を立山へ登らせたところ、「満山にて来鳥と申す鳥を見た」と報告しました。このことが当時の藩主前田綱紀に知るところとなり、網紀は「その鳥の絵を描いて出せ」と命じました。

また、そのとき与兵衛が「立山の来鳥と白山の来鳥とは大きく相違している」といったことが問題となり、立山、白山、そして白山麓にそれぞれ人を派遣して、ライチョウの形態やいつごろから白山にいたかなどの伝承が調べられました(『雑覚書』(1720年(享保5年))。

1734年(享保19年)にも加賀藩は、幕府の命を受け梅田与兵衛を再び白山に登らせ、ライチョウの絵図を作成しました。加賀藩は立山のライチョウの絵図とともにこれらの絵図を幕府に差し出したとのことです(『九淵遺珠』(1734年(享保19年))。

この絵図は、実際にどのようなものであったかは確認できませんが、先の正徳年間の絵図と時期的にも近く、同じものである可能性もあります。少なくとも加賀藩の藩主までもライチョウに関心を持っていたことがわかります。

また、白山で見たライチョウを絵図としたものではありませんが、ライチョウを描き、火徐けなどとして家に飾ったということもありました。

1708年(宝永5年)の京都御所の大火の際、先の後鳥羽院の御歌を書き添えて、ライチョウの絵のあった建物だけが類焼を免れたという有名な逸話があります。

このことを契機として、儒者の伊藤東涯がこの逸話をライチョウの絵とともに添え書きし(讃)、世間に広めました(『白山の歴史と伝説』(1958年(昭和33年))。

絵図はライチョウを想像して絵師が描いたものなので、実際のライチョウとはかけ離れていましたが、江戸期にはこのような絵図が広がっていたようです。

ライチョウが「雷鳥」と呼ばれる所以は「雷がおこるような天候の悪い時にしか出てこない」などとよく言われますが、「雷鳥は雷を取って食するのでカミナリはこの鳥の影を恐れる」(『扶桑雷除考』(1739年(元文4年))、「雷という虫(この虫が多い年は雷が多い)を好んで取って食べたから」(『震雷記 』(1767年(明和4年))ということも言われたりもしています。

いずれにしろ雷鳥は先の火除けとともに、雷除けとして重宝がられました。江戸期には山上の室にてライチョウの羽が一枚百文で売っていたとの記録があります(『白山道之栞』(1831年(天保2年))。当時、ライチョウの羽を雷除けのお守りとして、白山で拾い大切に保管されていたものが残されています。

火除けのお札は、今の時代にも残り引き継がれています。文人小松砂丘が描いた木版絵図が、お札として配られていました。砂丘は白山市中宮温泉に戦前・戦後を通してよく出入りをし、温泉の襖ふすま絵に絵を描くなど絵図を多く残しています。(以上引用)

こうみてきますと、江戸時代の白山に生息していたライチョウは霊鳥であり神の使いとされていたらしいですね。しかも、雷や火災を避けるという伝承もあるので、そこから「厄」を避けれるという解釈が生まれ、ヨゲンノトリ伝説になったのではないかと思われます。

あくまで、個人的なこじつけです(笑

ということで、今回の記事はヨゲンノトリでした。

※この記事に掲載されている情報については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。

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