前回、妖怪「アマビエ」の記事で、いずれの妖怪も、何故「その妖怪の姿を写し、人々に見せれば難を免れる」と言うのか疑問でした。
どうしても気になったので、次の記事を書く前に色々と調べてみました。
「姿を写す」をキーワードとして調べますと、「アマビエ」と似たような妖怪はもちろん、写経、陰陽師の護符、神札などが続々とでてきました。
一般的な解釈としては、医療技術に乏しく疫病に効果的な薬品等も無い時代だから神仏に頼らざるを得なかった!ということになりそうですが、「姿を写す」という意味では説明不足です。
何故なら、「姿を写す」という手段をとらなくても、陰陽師に「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)○○」という呪文を唱えてもらったり、一般人がお経を唱たり、写経をしたお経を貼るなど、色々な方法がありますので。
何故、妖怪の姿を写す必要があったのでしょうか?
そして、あくまで個人的ですが、ある人物に辿り着いたのです。
それは、「良源(りょうげん)」です!
というわけで、今回はこの「良源」の記事になります。
良源って誰?
良源は平安時代の天台宗の僧侶で、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。比叡山の経済的基盤の確立や、焼けたお堂を建て直したり、学問的な興隆、教団内の規律の維持など、さまざまな功績があり、天台宗の最高責任者である第18代天台座主も務めました。
弟子も多く、中でも歴史の教科書などに登場する『往生要集』の著者・源信(恵心僧都)は有名です。また、良源はおみくじの原型を作った人としても知られています。
良源は、「元三大師(がんざんだいし)」、「角大師(つのだいし)」、「慈恵大師(じえだいし)」、「豆大師」、「降魔大師」、「魔除大師」など、様々な呼び名があります。
「元三大師」は命日から生まれた名前です。亡くなった日が1月3日(元三)なので、元三大師の名前が生まれました。
「角大師」は伝説の姿から生まれた名前で、「慈恵大師」は朝廷から贈られた名前です。
その中で今回注目すべきが、「角大師」です。
平安時代中期に疫病が流行したときに、良源が自ら角を生やした鬼の姿「角大師」となり、その姿を版木にしてお札を作り、蔓延していた疫病を鎮めたとの伝承が残っています。
疫病を鎮めた角大師の伝承とは?
「角大師」は、良源が鬼の姿になり「疫病神」を撃退した時の姿だと言われています。角(つの)が生え、目が丸く、口は耳まで裂け、あばら骨が浮いて見えます。この姿を描いた「角大師」のお札は、門口に貼る魔除のお札として知られており、「鬼守り」とも呼ばれています。
山田恵諦(やまだ えたい)著の「元三大師」第一書房 (1979/01)には、疫病を鎮めた伝承が分かり易く書かれています。(山田恵諦氏は第253世天台座主を20年つとめた、有名な天台宗の僧侶です)
以下の伝承文は多少現代風の言葉づかいにしてあります。
お大師さまが73歳になられた貞観二年(九八四年)、御病気になられます少し前のことです。
いつもは静かな夜ですが、その夜ばかりは、簫々(しょうしょう)たる風雨で、心がざわつくままに、ただ一人、居室で正座し止観を行じておられました。夜も更けたらしく、従僧や下男も眠りについたか、雨だれの音だけが、淋しく耳をうつばかりであります。
不意に一陣の風が、さっと室に入って来ましたので、禅定を出て御覧になりますと、残燈の影に、怪しい者が居りましたので、
「そこに居るは何者ぞ」と静かにおたずねになりますと、
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しております。あなたもまた、これに罹られなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
「疫病の神となあ、そうして私もまた、逃れられないとのこと、唯円教意、逆即是順という、何れのところにか逆境あらん、然し、因縁を逃れ得ぬもまた当然、止むを得まい、一寸、これに附いて見よ」左の小指をお出しになりました。
厄神がそれに触れたかと思うと、全身忽ち発熱して、堪えがたい苦痛を覚えられましたので、心を寂静に澄し、円融の三諦を観じて、弾指せられました。厄神は弾き出され、伏しまろびながら逃げ失せ、お大師さまの苦痛は、忽ち恢復せられました。
お大師さまは、「わずかに一指を悩めるさえ、このような苦しみを覚えるに、全身を侵された逃るる術を知らぬ人々は、何としても気の毒である。これは、一時も早く救わねばならない」と思召され、夜の明けるを待ちかねて、弟子たちを呼び集められました。
「鏡を持って来てくれ、そうして、私がその鏡に姿を写すから、心ある者が、それを写し取ってくれよ」
弟子たちが運んで来ました、全身写しの大小判型の鏡の前に、座を占められまして、観念の眼を閉じ、静かに禅定に入られますと、不思議や、始めお大師さまの姿であったのが、だんだんと変りまして、最後には、骨ばかりの鬼の姿になりました。
見ていたお弟子たちは、あまりの恐ろしさに、その場にひれ伏してしまいましたが、明普阿闍梨だけは、気丈な上に、既に閻魔の庁で獄卒を見ておりますし、絵心第一と不断から自負しておりましたので、恐るることなく、鏡を見ては画き、画いては鏡を見まして、残るところなくそれを写し取りました。
禅定からお出ましなされたお大師さまが、これを御覧になりまして、満足に写しとれたという面持ちで、「これでよい、これでよい、これを直ぐに版木におこし、お札に摺っておくれ」
お弟子たちが、版木に彫り、お札に摺り上げますと、お大師さま御自身で、開眼の御加持を施されて、「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼りつけるように申しなさい。この影像のあるところ、邪魔は怖れて寄りつかないから、疫病はもとより、一切の厄災を逃れることが出来るのじゃ」
お札を頂いた家は、一人も流行病に罹りませんでしたし、病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい流行病も、たちまちに消え失せ、人々は安堵の思いを致しました。
このことがありましてから以来は、このお札を角大師と称えて、毎年、新らしきを求めては戸口に貼るようになりました。
疫病はもとより、総ての厄災を除き、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来ませんので、どれほど御利益を頂いているか、計り知ることが出来ないのであります。
それでありますから、日本全国、何れの宗派に属する寺院も、正月には、必ずこの影像を檀信徒に配布して、その年の厄災を防ぐような慣わしになりました。(以上)
まとめ
何故、妖怪「アマビエ」や他の妖怪が「私の姿を写し、人々に見せれば難を免れる」と言うのか?
色々調べた結果、その理由を「角大師」の伝承に見出すことができそうです。
医療技術に乏しく疫病に効果的な薬品等も無い時代だから、神仏などの超越的な存在に頼らざるを得なかった!ということが大きな理由ですが、「姿を写す」という理由は、疫病には疫病を司る「厄神」というものが必ず存在しているという前提があったからです。
また、「厄神」というくらいですので、神にお経や呪文が効くはずがありません(汗
「角大師」の例では、「厄神」が自分を弾き飛ばした「角大師」を恐れ、「角大師」の影像のあるところでさえ、「厄神」は怖れて寄りつかないから、疫病を逃れることができるという論理です。
ということは、アマビエ達も1度は「厄神」を撃破しているのでしょうね。だから、アマビエ達の影像のあるところは、「厄神」が寄りつかないという伝承が広がったのだと思われます。
今回の記事を書くにあたり、伝承の面白さにのめり込んでしまいました。機会があれば今後も色々と調べようと思います。特に陰陽師の「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)○○」という呪文は面白そうですから。
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